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2009年05月29日

どう生きるのか

今ちょっと忙しいですが、却って何をしようかと迷っています。
ある先生のおっしゃったとおり、「‘忙しい’はやるべくことは多すぎるのじゃなくて、ただ感覚の一つです。やるべくことを思うだけで焦るという感覚です。」と。
確かにそうですね。「忙しい」、それはこころのゆとりがないという意味でしょう。もしも、一つ一つのことをまじめにすれば、「忙しい」と感じないでやりぬくこともできるでしょう。

今、考えているは多すぎるから、ちょっとイライラしています。
まぁ、落ち着いて、ゆっくり書きます。

几帳面VSいい加減
それらは正反対の概念です。
几帳面、あるいは真面目、というのは何もかもきちんとする様子である。一生懸命やること。星新一の小説「企業内の聖人」では、あの非能率の男もそのタイプの人だと思います(笑)。一般的、そんな几帳面な人は往々にして理想主義の傾向がありがちです。力を尽くしてやる。結果はいつも満足できるが、疲れるじゃん?
いい加減というのは「まぁ」という感じかも(笑)。ほどほどにしていいじゃん?「まぁまぁ、それでいい。」物事は自分の予想どおりに行うわけにはいけないから、いい加減にしよう。誤魔化したり、ウソをつけたりする。疲れるには疲れないが、なんとなく徹底じゃないので気持ち悪い。
几帳面な人を出会った時は(いつもそんな人はとても成功な者なんです)、「あ、すごいなぁ~」と感心してならない。といっても、足りないのは面白くないこと。論文はエッセイよりもっとすごいが、面白くない。たくさんの理論を述べて、硬い。だから、興味もだんだん薄くなった。
いい加減な人を出会った時は(いつもそんな人は気軽くて、ユーモアです)、「あ、けっこう面白いなぁ~」と感心してならない。といっても、奥深さが足りないこと。エッセイは論文よりずっと面白いが、あんまり役にも立たない。浅い、不十分。だから、興味もだんだん薄くなってゆく。
几帳面と同時にいい加減というのは可能ですか。うーん、難しい。でも、そんな人間になりたい。

仮面VS素顔
『野ブタ。をプロデュース』という小説を読んで、そんな難しい問題を深く考え始めた。
昔、安部公房の小説『他人の顔』と『箱男』も読んだとき、それを考えたこともある。
人間は誰でも仮面をかぶっていると信じている。私も例外ではない。「箱男」のように、箱の正面に二つの穴を開けて、それを通して外を覗く。自分を隠す「箱」があれば、他人が自分を見えないから安心だという不思議な心理も理解できる。仮面をかぶって、「保護される」という錯覚があるからのだ。
『野ブタ。をプロデュース』で、桐谷修二はそういう仮面をつけた人だ。「人生はつまらない、この世の全てはゲームだ」と。建前ばかり言ったり。真理子との間に深くもない浅くもない曖昧な関係。森川や堀内との間に親密に見えても実際何もない関係。森川はトイレでの話―「僕さえも…見分けられなかったのか?あの時、お前はコンビニで雑誌を読んでたでしょ?…なぜ、なぜ救いに来てくれなかったのか!お前はほんとにそんな人間なのか!」と。真理子を本心から好きながら、何もしなくて、わざと適当に遠ざける。
なぜ?怖いかも。遠すぎると寂しいが、近すぎると嫌になる(責任も負うようになって、面倒)。だから、そんな深くもない浅くもない曖昧な関係は最高だ。それもいい加減の一つじゃない?
結局、誰も桐谷修二のことを信じてくれなくなってしまった。悲しい。仮面をかぶるのはダメ。でも、今の人々はやっぱりかぶっている。
では、素顔で人と付き合うのはどうかな?うーん、傷つきやすいかも。しかも、すべてを人の目にさらすのは神秘の欠如だろう。面白くない。やめましょう。
適当に自分を隠しながら、心から人と付き合う。それは可能ですか。うーん、難しい。でも、そんな人間になりたい。

いつもそんなつまらないことを思っている。まぁ、日本語はまだヘタクソで、そんな難しい話がはっきり説明もできない。ここで止めよう。
さて、日本歴史を勉強しています。面白い。織田信長、豊臣秀吉and so on。藤原氏という家族は人が多いですね。道長、頼通父子は偉い。…
今江戸時代まで習いました。もっともっと知りたいんです。  


Posted by teisan at 16:41Comments(3)感想