2009年05月08日

「南京!南京!」という映画を観ました

中泉英雄さんに感心の気持ちを禁じ得ない。
イケメンの彼はそんな複雑の役割りをするとは、本当にエライですねえ~
戦争の映画を見る、しかも中国を侵略したことについての映画を見るのは、実に不快ですが、
また、私は日本語を勉強している学生だから、さらに不快です。
でも、平気に考えると、確かにその映画からいい勉強になった。
ネットから、その映画に対する日本人と中国人のそれぞれのコメントもいっぱい読んだ。
その歴史を認めるのを前提にして、日本を憎むより自国を強めることは中国人がすべきことだと思う。
そして、もし日本の方も興味があったら、その映画をみてほしいんだ。作り話じゃなく、本当のことだから、見る価値があると思う。


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Posted by teisan at 21:36│Comments(10)気持ち
この記事へのコメント
南京大虐殺の映画ですね。見てみたいですが、日本ではやってなさそうです。
Posted by 花山院 at 2009年05月09日 20:17
あ、そうですか~
ニュースによると、映画「南京!南京!」は日本での上映は「有望」という
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090507-00000144-scn-cn
Posted by teisan at 2009年05月16日 19:30
「戦史叢書」と「南京大屠殺記念館」の差

結構知られているようなのですが、防衛研究所戦史部が南京を否定するのは、GHQのGSとG2の占領政策の違いから来ていました。

この戦史部OBで終戦時少佐のM.T氏が2006年に親父(栗原利一)のスケッチブックの破壊工作を行なって失敗しています。
(この方は、偕行社にいた時に東裁判を計画された方でもあります。)

以下は「加害と赦し、南京大虐殺と東史郎裁判」の中の吉田裕氏の論文の抜粋です。

防衛研修所戦史室の源流

...この資料整理部の前身は史実調査部、さらには史実部であるが、一貫してその中心的地位にあったのは、元陸軍大佐の服部卓四郎だった。
服部は、タカ派で有名なGHQ参謀第二部(G2)部長の、C.A.ウィロビー少将の援助の下に、周辺に旧日本軍の幕僚将校を集めて「服部グループ」を結成する。
占領中から、秘かに再軍備計画の研究にあたっていたのは、このグループである。

一方、「服部グループ」は、史料整理部を中心にして、「大東亜戦史」の編纂にも、大きな力を注いだ。
この点について、二代目の戦史室長をつとめた島貫武治は、次のように書いている。

 史料整理部の陣容は俊秀をもって当てられ、服部卓四郎、...各大佐、...各中佐、...少佐等で、 わが国においても政府による正統の大東亜戦争史を編さんすべきであるとの願望を抱き、 史料の収集整理に努めるとともに、昭和二十八年には大東亜戦争全史四巻を世に発表した。

...著者は服部卓四郎となっているが、「実際は各戦域の作戦参謀級の幕僚が、分担執筆し、稲葉正夫(四二期、終戦時陸軍省軍務局軍事課員、中佐)がまとめたもの」であり、服部周辺の旧幕僚将校による合作だった。
そして、「後にこの整理部から多くの人が、貴重な史料とともに戦史室に転用され」、戦史室の中心を、これらの旧幕僚将校が占めるようになったのである。

...戦史室編纂の「戦史叢書」が、旧軍の立場を代弁する弁明史観的性格を色濃く持たざるを得なかった...

(皮肉なことに親父が65連隊だったものですから、服部氏が最後の連隊長を務めた65連隊の2万人の捕虜殺害が一番明確に事実が解明されています。)
Posted by 核心 at 2009年05月27日 19:17
日本人が南京を知らないのは、アメリカの占領政策によるものです。
GHQ-GSが憲法を作り、東京裁判を行いました。
GHQ-G2がらみで戦史部の前身が出来、そこで南京は無かった、という捏造が行なわれたのです。
現代の日本はアメリカにより作られた国なので、その自覚がないと日本人には南京も理解できないのです。

日本の自衛隊、防衛省は朝鮮戦争の勃発により、占領中にアメリカにより創設されました。
南京が日本から消えた遠因は朝鮮戦争にもあるのです。
Posted by 核心 at 2009年05月28日 00:08
>核心さん
ごコメントありがとうございます
でも、あなたの日本語はむずかし過ぎて、理解しにくいんです。
大体の意味が分ったんですけど。。。
Posted by teisan at 2009年05月28日 22:06
「戦史叢書」の編著者の一人である森松俊夫氏が2001年に東史郎裁判で勝った方法は以下のようなものです。

まず、東史郎氏に日記の原本を「平和のための京都の戦争展」に貸し出させ、後の裁判の証拠となる部分を抜き取らせ、それから名誉毀損裁判を起こしたのです。
東氏は、展に貸し出したところ証拠となる部分だけ抜き取られたと主張したのですが、受け入れられず最高裁まで行って敗訴しています。

なぜ、このようなことが判明したかというと、森松氏は2006年に父のスケッチブックに手を出して失敗したからです。
私は偶然的に戦史部を大手の顧客とする某社(誰でも知っています)に、アルバム2冊とスケッチブックのCD-R化を発注したところ、両方から写真と地図帳が破り取られました。
被害届は小平警察から牛込署に2通、まわされてます。

この事実から、この問題の根深さをご理解ください。
Posted by 核心 at 2009年11月15日 11:21
南京大虐殺は世界的に誤解されています。

中核的な出来事は南京陥落時の城外における大規模な捕虜の殺害です。
父親(栗原利一)のスケッチブックでも7万余人と書かれています。
非戦闘時の7万余人の捕虜の殺害ですから、当然、日本陸軍が軍の組織として行なったものです。
捕虜の多くは蒋介石軍兵士などです。

ただ、中国側の言う30万人説は戦闘時の犠牲者も含めた数として合理的な数です。
昭和12年7月の南京の人口は135万人です。
11月末の人口は50万人で、これに南京防衛軍15万が加わった65万人が日本軍の攻撃に晒されました。

否定派の言う20万人は逃げ場の無い貧民の数です。
小平市の警察学校と小平団地を合わせた(昔の警察学校の広さ)10万坪の安全区に押し込められた貧民の数です。

(65連隊のシャーカンおける2千人斬首は父だけが日本側の証人です。名古屋市の河村市長は無知なだけです。「ジョン・ラーベ」は城内での出来事しか書かれていないので日本人には誤解を与えます。)
Posted by 核心 at 2009年11月15日 11:33
なぜ、日本人が南京を知ることができないか?

それは南京の事実が日本政府にとって認めることの出来ない出来事だからです。

日本陸軍が行なった大規模な捕虜の殺害ですから、捕虜を得た部隊が、捕虜の殺害を行なった部隊です。
つまり、殺害(=虐殺)の実行部隊が完全に分かっているのです。

ナチスのホロコーストでさえ、従事したドイツ軍1万人のうち、判明した人物は1割程度です。

これほど日本政府にとって不都合な真実はないのです。
Posted by 核心 at 2009年11月15日 11:40
南京の経緯

1.1937年12月の南京陥落時に、非戦闘時に7万人以上、戦闘時も含めると30万人以上の中国人の軍民が殺害されました。
1945年の戦争終結までは南京は日本軍の統治下にありました。

2.1945年、戦争終了時に戦勝国に蒋介石が加わったことにより、南京陥落時の捕虜殺害が罪に問われました。
中国側の証言は多数得られたのですが、日本側の責任ある地位の軍人の証言は殆ど得られませんでした(当然ですね。死刑になってしまったでしょうから。)。

3.1961年ころより、旧軍人などが中心となり南京での捕虜殺害を否定する本が各地で出版されました。
これにより日本人の南京での捕虜殺害は一般の日本人には全く知られないようになりました。

4.1984年に私の父親(栗原利一)などが南京での捕虜殺害を証言したり、資料を公表したことにより南京での捕虜殺害の実態が一部の日本人、多くの中国人に知られるようになりました。

5.2001年以降、私(栗原利一の息子)がネットに登場し、2006年にはCD-R2枚の資料を中国側、防衛省OBに無料配布することにより、より一般的に南京の実態が知られるようになりました。

(中国人の人が全く理解できていないのが、現在の日本の憲法はアメリカ人が作ったものである、という点です。いまの日本人は、いわばアメリカ人のような価値観の人が大多数です。)
Posted by 核心 at 2009年11月15日 13:29
(他への書き込みです。これは本当にあったことです。)

「南京大虐殺研究札記」の小俣行男氏の記事の元本の「侵掠」(1982年、現代史出版会、徳間書店)を読んだところです。

この方は父より1歳年下の読売新聞の従軍記者です。
基本的に全く嘘や誇張の無い記述だと思います。
前半の支那事変での従軍体験の話は連隊本部や大隊本部の位置関係や設営状況などが分かり、とても参考になりました。

南京大虐殺については以下のような記述です。
私はこれ以外に父から聞かされた中国兵捕虜の斬首行為に適合する記述を知りません。

南京大虐殺

”上海支局に着いたその夜、二人の連絡員が南京から帰って来た。現地採用の武田と畦崎だった。側車をつけたオートバイを飛ばせてきたので...

「寒いの、なんのって-」。
頬がこわばって口がきけないほどだった。二人とも南京陥落(昭和12年12月13日)後はじめての帰還だった。ちょうど一ヶ月目である。...

捕虜も全部で10万人くらいいるらしい。最初に入城した部隊が、「この捕虜をどうするか」と軍司令部に聞いたら、「適当に処分しろ」という話だった。...

そこで、揚子江岸の下関へ、捕虜を連れていって首を切った。最初の列の処刑が終わると、次の列を前進させて、死体を前に投げ込ませて、それから前と同じように一列にならべて処刑した。こうして朝から晩まで、つぎつぎに首をはねたが、一日に二千人しか斬れなかったという。...

二日目には手が疲れてきたので、機関銃をかつぎ出した。河岸に向って一列に並ばせて、ドドドドッと、重機関銃の引き金を引いた。捕虜たちはいっせいに河に向って逃げ出したが、岸までたどりついたものは一人もいなかったという。...

揚子江には中国兵の死体がいっぱい浮き、河の水は真っ赤で正視できぬ惨状だった、という。...”

私が小学三年生の時に、父が話した身振りは以下のようなものでした。
父は坐ったままで刀を(実際の刀は持たずに)思いっきり上から振り下ろす動作を数回繰返した後で「さすがの揚子江も真っ赤になった。」といって高笑いしていました。

父は首を斬ることをもっぱら担当していたのだと思います。
父は当時26歳で剣道三段でした。

「岸までたどりついたものは一人もいなかった」ので65連隊の一方の処分(=虐殺)現場の死体の山となったのです。
Posted by 核心 at 2009年11月22日 18:18
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